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ゴールドコーストの夕焼けと月

 

 

中学校の生物の『遺伝子』の授業でメンデルの法則を学んだとき、組み合わせの違いはあれど、遺伝子は両親から半分づつ受け継がれることを知った。

その後何かのテレビ番組で、いわゆる人間の性の違いは23対の染色体のたった一対の性染色体のXとYの違いで起きると説明していたのを見た。

 

女性の性染色体は『XX』 男性は『XY』。

 

この性染色体を知ったとき、そして、男性と女性の骨格の違いを学んだときに思った。

 

(女は絶対男にはなれない……)

 

生物学的に見ると、人間は男性(雄)か女性(雌)でしか分けられないという現実だった。

 

 

男性ホルモンや女性ホルモンを打てば、女性は男性のように筋肉が付きひげも生えて来るし、男性は胸が膨らんで身体が丸みを帯びて来る。

けれど、見た目は男性になれても染色体は『XX』の女(雌)のままだし骨格も変わらない。そして、逆に男性も女性より女性らしい男性は沢山いるけれどやっぱり染色体は『XY』で骨格も男(雄)なのだ。

 

だから、例えば殺人事件などに巻き込まれて殺されて、数年後に骨になって発見されたとしたら、生前男性として生きていたとしても骨やDNA検査では女(雌)として鑑定されるし、女性として生きていたとしても男(雄)として鑑定されるのだ。

 

当時はジェンダー(gender)という言葉を知らなかったから上手く表せなかったけれど、こう思っていた。

 

(心(今で言うジェンダー)と性(Sex)は別もん)

 

Gender:ジェンダー[社会的、文化的意味付けをされた男女の差異]

出典:https://ejje.weblio.jp/content/gender

Sex:性別 [男《雄》と女《雌》の別]

出典:https://ejje.weblio.jp/content/sex

 

 

中学三年生のとき、隣のクラスに女子のような男子が二人いた。

学ランを着て、身体は男なのだけれど女言葉を巧みに使いこなして会話をする二人は、当時、テレビでおすぎとピーコというゲイの兄弟の中学生版を見ているようだった。

 

(彼らは私と逆なんかな)

 

なんて思っていた。

 

 

当時はゲイ、レズビアン、バイセクシャルの三つしかなかった。今で言うLGBTQのLGBに当たる。

「酸性」「アルカリ性」「中性」というのを習ったとき、それを「男性」「女性」「中性」に置き替えて、(自分は中性かなぁ)なんて思っていたから、今のLGBTQのQに当たるどっちつかずのジェンダーだったのかも知れない。

 

 

高校はバレー部が強かった女子高に進んだ。

そこで2年生、3年生になったとき、下級生の子に結構モテてお手紙を貰ったりもした。

何故かそれが男子にモテるよりも嬉しかったし、その女の子たちを、(か愛らしいなぁ)なんて思ったりしていたので、やっぱり私はチョット普通の女子とは違っていたのかも知れない。

がしかし、その普通の女子というのがそもそも分からない私であった。(笑)

 

 

さて高校を卒業して1年後、私は英会話の勉強をする為に東京に出た。そこで私はやはり男がやる仕事に興味を持った。

野球が好きだった私は後楽園のお土産屋でアルバイトを始めたのだけれど、丁度その土産物屋の裏にサントリービールの冷蔵庫があり、試合開始の1時間前になると次々と高校生や大学生の男子が集まって来て、ベンダーに24本の缶ビールとおつまみを乗せて売りに出て行くのだ。

そして、しばらくすると空缶を抱えて走って戻ってきて、再び24本のビールをベンダーに入れて貰い、すぐさまそれを抱えて走り出して行く。

それがめちゃめちゃカッコ良くて、シーズン中ずっと(あれやりたいなぁ)と思っていた。

 

シーズンも終わりに近づいたとき、そこの主任さんと仲良くなれて、その年の日本シリーズでサントリーウイスキーのホットウーロン茶割りの売り子でデビューすることが出来た。

サントリーが新しくウーロン茶を販売し始めたので、そのウーロン茶の宣伝も兼ねてウーロンハイを売ってみようとなったらしいのだが、ビールと比べて軽いから女の子でも出来るだろうと思ったようだ。

日本シリーズでは3人の女の子がウイスキーの売り子をしたような気がするが、結構売れたので、そのウーロンハイは翌年のシーズンから後楽園球場で売られるようになった。

 

けれど、翌年のシーズンはビールの売り子をさせて欲しいと主任さんに頼み込んで、開幕からサントリーのブルーのユニフォームに身を包んで、男子に混じって売り子を始めた。

 

これがまたメッチャ楽しかった。

 

私は、自分が女子だから買ってくれるお客さんが多いことに気付いていた。

それが男子には気に食わなかったかも知れないけれど、いじめられることは無かった。

かと言って、私は女を出してビールを売っていた訳ではない。

呼び止められて階段を上がっていったら、

 

「あれ?もしかして女の子?遠目に見たら男の子に見えたから分からなかったよ。」

 

と言われたくらいだ。

 

1984年のビール売り姿

 

そして途中から、一番売れる試合開始30分前の出だしのときに48本の缶ビールをベンダーに乗せてアルプススタンドを駆け上がることもやっていた。(ガチで息切れマックス🥵)

 

「桔梗も今日からスタートは48本な!」

 

と初めて言われた時、

 

「マジで?持てるか分からへん。」

 

と答えたが、ベンダーに入っている24本の缶の上に「ドン!」と24本乗せられた。


「お“、重っ!」

 

一度上に乗せられたら、自分一人では下ろせない重さだ(350ml(約365g)×48=17.5㎏+ベンダーとおつまみの重量)。軽くしたかったら売って来るしかない。

けれど、「女だから無理~」と言うことは絶対にしなかった。

この仕事を4月から始めて、3か月で5㎏痩せた。(筋肉はがっちり付いた)

 

 

けれど、当時の私はそれなりに悩んでいた。

 

(これは男子の仕事を奪ってる事になるのか?)

 

私は単に男子と同じように仕事をしたかっただけなのだが、女子である自分の売り上げが上がるのを苦虫を嚙み潰すような思いで見ていた男子もいたかも知れない。

 

けれど、夏の都市対抗を売り上げトップで折り返した頃から、他のビール会社(キリンとサッポロ)にも女子のビールの売り子さんが出始めた。

今はどこの球場もビールの売り子は女子だけれど、少なくとも後楽園で女子のビールの売り子を使い始めたのはこの年からだ。

主任さんの話では、他のビール会社でも「女の子であるだけで並の男の子よりビールが売れる」と気付いたのだそうだ。

それを聞いて、ちょっとホッとした自分がいた。

 

 

自分なりに自分のジェンダーと性に葛藤していた時期でもあった。

 

 

 

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夕暮れの雲

 

 

私は子供の頃、ガキ大将だったらしい。

 

「らしい」というのは、自分にはガキ大将している自覚が無かったからだ。

7年ほど前に幼馴染の男性がやっているケーキ屋を訪ねたとき、昔話に花が咲いて、そのときに私が近所の男の子達の大将だったと言われた。

 

私:「え?そうやった?男の子と遊んでたのは覚えてるけど😅」

 

幼馴染:「いや、桔梗はいつも俺たちを引き連れていた。」

 

う~ん。確かに幼稚園でも小学校でも、女の子たちとお人形遊びとかままごとをした記憶は全くと言っていいほど無い。

「今日はOOするぞ~!!」とか言って、無理やり男の子達を引きずりまわしていたのかも知れない(笑)

 

しかし、当時は今のようなジェンダーレスなんて考え方は無かったので、私は、成長するにつれて否が応でも女の子であることを自覚しなければならなかった。

 

 

小さい頃の写真を見ると、まだスカートをはいている写真もあった。

けれど、男の子と遊ぶ時は当然短パンとシャツ。

自分が女の子らしいことを嫌うようになった記憶は、小学校2年生くらいからだ。小学校は服装が自由だったので、2年生以降は私はいつも短パンかズボンで学校に通っていた。

だが、学年が上がるにつれて男子と女子が分けられることが出てきた。

 

先ず小学校3年生になったとき、体育の服装が変わった。

男子は今までと同じ短パンなのに、女子はブルマーをはかなければならなくなったのだ。😱😱😱

これが恥ずかしくてしょうがなかった。

ところが、今度は身体に変化が出始める。

小学校5年生になると胸が膨らみ始めた。(デカくなかったのは幸いやった😓)

そして、6年生になると初潮があった。(おぞましかった😱)

いわゆる『女子』になっていく自分がめちゃめちゃ嫌だった。

 

そんな私の、小学校3年生から卒業するまでのあだ名は『あしゅら男爵』。

1972年から始まったテレビアニメ『マジンガーZ』に出て来る、顔の右半分が女性で左半分が男性という悪役キャラクターだ。

私が悪者という意味ではない。(いや、もしかしたらそういう意味だったかも汗汗汗

なぜなら、このアニメが始まる前は『おとこおんな』と言われていた。

たまたま人気アニメのキャラクターに、男と女が一緒になっているキャラクターが出現したのでそのキャラクターの名前があだ名になっただけ。

つまり、男子の中でも私は男みたいな女として扱われていたというわけだ。

ただ、『あしゅら男爵』と言われても、いじめに遭ってる気はしなかった。

それはそうだと思う。

小学校3年生頃から5年生になるまで、私は毎年一回は男子相手に取っ組み合いの喧嘩をしていたからだ。(泣かせたこともある……ごめんなOO君あせる

 

 

ところが中学校に入ると制服がある。女子はセーラー服、そして男子は学生服。

このセーラー服にめちゃめちゃ違和感があった。今のようにジェンダーレスで制服が選べたら、私は絶対に学生服を着ただろう。

小学校の卒業式は中学校の制服で出席しなければならず、卒業式の日にからかわれた。

 

男子:「うお〜っ!一ノ関がスカートはいてる!!びっくりびっくりびっくり

 

私:「はきたくてはいてるわけやないわむかっむかっ!着れるもんなら学ラン着たいわ!」

 

 

 

さて、中学校に上がるとよその小学校からも生徒が集まって来るので、私のことを知らない男子も多かった。

新学期早々、クラスの男子たち何人かがスカートめくりをしたりしてからかってくる。

「やめろ」と何回言っても、しつこく繰り返す男子がいた。本人達はその女子の反応を面白がっているのだけれど、これがめちゃうざい。

ある日、またその男子がちょっかいを出してきた。私は振り向きざまにほっぺたに平手打ちをかました。

 

「やめろって言うてるやろムカムカ!何度言うたら分かんねん!」

 

その男子は、鳩が豆鉄砲を食らったみたいに固まっていた。

その日から、クラスで私に手を出す男子はいなくなった(😅)

 

 

当時、男子は私にとって馬鹿言って笑い合う仲間で、女子より話し易い相手だった。

ところが中学校二年生のある日、

 

女子:「ホントに仲がいいことねむかっむかっ!」

 

と教室で、すれ違いざまに友達でもないクラスの女子に面と向かって言われた。

彼女はそのまま教室を出て、次の授業の部屋へと他の女子と一緒に歩いて行った。

 

私:「何なん、あれ?」

 

女友達:「あの子、Y君のことが好きなんよ。桔梗がYと仲良く話してるのを見るのが嫌なんよ。」

 

私:「ほな自分も話ししたらええやん?」

 

女友達:「それが恥ずかしくて出来ひんから桔梗に嫉妬してるんやないのあせる

 

女子の女心が全く分からない私だった……😓

 

 

 

弁当が男子生徒よりデカくて、男子に驚かれたこともある。

 

男子:「お前の弁当デカくね?二段やんか!」

 

私:「練習キツイから腹減んねん!」

 

上の段はおかずで、下がおかずのの二倍の大きさのご飯🍚だったのだが、こんな風にからかわれても平気で毎日そのデカ弁を食べていた。

 

 

で、当時の私にとって男子は憧れだった。

バレー部に入ったものの、男子バレー部員のダイナミックなスパイクやブロック、そしてフライングレシーブがカッコ良くてめちゃめちゃ憧れた。

けれど、生まれ持つ筋肉が違う。だから、どんなに頑張って厳しいトレーニングしようが自分は男子のように飛べないし、破壊力のあるスパイクも打つことは出来ない。

せめてフライングレシーブだけでも!と頑張ったのだけど、胸が邪魔でカッコいいフライングレシーブは出来なかった。(がっくり😞)

 

 

こんな風に小学校から中学校へ進むにつれ、少しづつ少しづつ、自分は男子の恰好をしても絶対に男子と同じ様にはなれないという現実にぶち当たっていった。

 

そして、中学生の時に遺伝子の性染色体というのを知った時に思った。

 

(女は絶対に男にはなれんのや……)

 

 

これを理解しているのとしていないのとでは、ジェンダーレスの捉え方が全く違って来ると私は思う。

 

次は、私の人生のジェンダーレスの考え方の変化について書いていこうと思う。

 

 

 

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秋やけど日差しが強い😎

 

 

今日のゴールドコースト、最低気温は11℃で最高気温は23℃。

朝晩の冷えを感じ始めて、(ゴールドコーストもやっと秋の気配やなぁ)なんて思ったのだけれど、よくよく考えて見れば6月が目前に迫っている。

暦の上では来月から冬。でも南から来た人にとって此処の気温は、冬と呼べない気温なのである。

南のメルボルンから来た人と話す機会があり、こう言われた。

 

「今日のメルボルンの最低気温は5℃よ!こっちの最低気温と向こうの最高気温が同じなのよ。だから、ぜーんぜん寒く無いわ(笑)」(せやろな~(笑))

 

 

 

さて、先日久しぶりに会った友人とお茶をしていたとき、彼女の父親の話になった。

お父様が94歳で私の父と同い年。

一人で暮らしているのだそうだが最近身体の衰えが著しく、今までは通いで毎日ヘルパーさんに来て貰っていたのを、24時間体制で見守ってもらっているのだと言っていた。

 

私:「私の父はとりあえず買い物行ったり料理したりは出来るんだけど、掃除しないから家がめちゃめちゃ汚いの」

 

ということで、過去のブログにも書いた父の家の状態を説明し、加えて、昨年父が脳梗塞疑いで入院したことも話した。

実家から半端ない食料が出て来た件

実家から半端ない食料が出て来た件……の続き

実家から半端ない食料が出て来た件……その後

四年振りに一緒に出掛けた父がヤバかった……の巻

 

私:「父も94歳だから、益々掃除なんかしなくなるでしょ?家は汚くなってるはずなのよ。だからヘルパー頼んだらって妹に言ったら、「あの家の状態じゃヘルパー呼べない」って。」

 

友人:「でも、それってお父さんの健康上良くないんじゃない?ヘルパーも手配しないって、ネグレクトじゃないの?」

 

私:「だから、とりあえず汚実家を掃除してヘルパーさんに来てもらえるようにするオファーを妹にメールとメッセージでしたんだけど、完全無視(笑)

 

友人:「電話したら?」

 

私:「それが出ないの。一昨年に介護の必要な叔父夫婦の事で話をしたいからって弟に電話を入れたら、「嘘つきとは話をしません!」ってガチャ切りされたし、妹も「桔梗とは話しません」って(笑)

 

 

 

彼女の父親も私の父にそっくりで、人に『感謝』をしない人なのだそうだ。

 

友人:「私の娘が父を訪ねるじゃない?でも「来てくれてありがとう」じゃないの。「孫ならもっと頻繁に訪ねて来るのが当たり前だろうムカムカ?」って文句を言うの。成人して仕事してるんだから、そんなにしょっちゅう来れないじゃない?だから、娘たちも行きたがらなくなっちゃって。」

 

私:「そうだよね~。うちの父なんか「毎年アリスに会えるものなら会いたい!」って言うから毎年連れて行ってたのに、妹に何言われたか知らないけど途中から「金が無いんだったらわざわざ来なくてもいい!」なんて電話で言っちゃうの。アリスがスピーカーで聞いてたもんだから「じゃあもう二度と会いに行かないからムカムカ!」ってブチ切れちゃって。」

 

友人:「私の弟妹も滅多に父に会いに来ないの。この間久しぶりに弟が父を訪ねて来たと思ったら、1時間しか滞在しないでさっさと帰っちゃった。たったの1時間よ!」

 

私:「うわぁ、なんか似てる汗汗汗。私の弟もUSAに住んでるんだけど、母が亡くなる数年前に電話で母と喧嘩したのよね。その翌年に日本に帰って来た時、いつもは母の所に滞在するのにその時はお嫁ちゃんのお母さんの家に滞在して、母の家を訪ねても30分も居なかったって母が言ってた。」

 

友人:「アメリカから帰って来て、会ったのがたったの30分?いくら喧嘩したからって、それはありえなくない?」

 

私:「本人は自分が正しいって思ってるから、そこは父と同じ。なんか父に似てきて心配やねって母と話してただけなのに「桔梗が悪口を言ってる」って😅」

 

友人:「それは悪口じゃなくて、事実では?」

 

私:「(笑笑)そう!!なのに妹まで「本人が嫌いだと言ってる人に似てると言うのは悪口です」って。もう彼らの論理が私とはズレまくってるんで、まともに相手してるとエネルギー吸い取られるの。せやからこうやって笑い話にして話すようにしてる。😅」

 

友人:「なんか凄い家族ね😱汗汗汗。私の家族って酷いと思ってたけど、桔梗の家族の話聞いたらまだ私の家族の方がマシかもって思えてきた。」(それは良かった……のか?)

 

私:「でもあなたも気を付けないと、亡くなった私の母みたいに愛情とエネルギーを搾取されて空っぽになっちゃうからね。だから境界線をしっかり決めて、ちゃんとエネルギーを充電する方法を見つけなきゃね。」

 

 

 

近年、『毒親(Toxic parent)』という言葉も日本で広まっている。

1989年に出版された『Toxic parents : Overcoming their hurtful legacy and reclaiming your life』by Susan Forward という本が由来と言われている。

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友人の父親も私の父親も、『毒親』の部類に入るのかも知れない。

 

 

彼女は自分の家族の方がまだマシかもって言っていたが、いやいや、彼女の御家族もなかなかである。

ご両親には私もお会いしたこともあり、お父様の持つ独特の雰囲気は確かに私の父に似ていた。

お話を聞く限り、彼女の弟妹も実際にご両親のケアをしている訳ではない。

もしかしたら、長女が両親の面倒を見るのが当たり前というカルチャーがご両親の出身国にあるのかも知れない。

 

 

私の周囲にも、ご両親の介護に頭を悩ませているオーストラリア人は多いが、さすがに両親の家はきっちりヘルパーに掃除をして貰っている。

というか、ごみ屋敷を汚いと思わずに平気で住めること、またそのごみ屋敷の清掃を頑なに拒んだりすること事態、その住人に何かしら精神的若しくは体力的に問題あることを示しているのだが……。(例えば認知症、神経発達症(発達障害)、パーソナリティ症(パーソナリティ障害)又は、病気など)


あの汚実家に住んでいること、住まわせていることが尋常ではないことに早く気付いて欲しいが、(私の話には耳を傾けない)94歳の父がそれを理解するのは……やっぱ難しいやろなぁ。

 

 

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南十字座が、綺麗に見える季節

 



私は小学校五年生から始めて、中学校、高校とバレーボールをやっていたけれど、それ以前は男の子と野球⚾️をするのが大好きだった。

当時、今のように女の子も野球クラブに入れたら絶対入っていたと思う。

見るのも大好き

プロ野球も好きだけれど、高校野球はこれまた違う感動があっていい😍

 

 

2018年の夏の甲子園は、春夏優勝した大阪桐蔭ではなく、準優勝だった金足農業が話題をさらった年だった。

その年のドラフトでは、優勝校の大阪桐蔭から4選手がドラフト指名されてプロの門を叩いた。

根尾昂選手は中日、藤原恭大選手はロッテ、横川凱投手が巨人、そして柿木蓮投手が日本ハムファイターズに入団している。

準優勝の金足農業の吉田輝星投手は、日本ハムファイターズに一位指名で入団したのだけれど、昨年2023年オフシーズンにオリックスにトレードになった。

2018年組の出世一番頭は、聖心ウルスラ学園からジャイアンツに入団した戸郷翔征投手だろう。彼は昨年のWBCにも選出され、文句なしの活躍をしている。

 

 

さて、この2018年のドラフトで私が気になったのが日本ハムファイターズだ。

理由はドラフト7位までの指名選手のうち、なんと吉田投手を含む5人が高校生だったからだ。

一位指名の吉田輝星投手(金足農業高校)、二位の野村佑希選手(花咲徳栄高校)、三位が万波中正選手(横浜高校)、五位が柿木連投手(大阪桐蔭高校)、そして六位が田宮裕涼捕手(成田高校)。このうち田宮捕手を除く4人が甲子園に出場している。

 

このファイターズのドラフト指名選手一覧を見てこう思った。

 

4人甲子園組やわ!これ、あえて高校生同士で切磋琢磨させようとしてんのかな?上手くいったら、ファイターズ数年後にめっちゃ強くなるん違う?)

 

どうやら私の予想は当たったみたいだ。

一昨年、昨年と最下位だったファイターズは、今年2024年の5月現在ソフトバンクに次ぐ二位でノリに乗っている。

 

実際この2018年ドラフト組5人のうち、3人が一軍で活躍している。

二位の野村選手、三位の万波選手、そして六位の田宮捕手。

特に田宮捕手は昨年のシーズン終盤に打撃で頭角を現し、今年は開幕から一軍に定着してマスクを被っている今年のファイターズの注目選手だ。

野村選手は開幕から全く調子が上がらず、一度二軍に落ちているが、二軍で打ちまくって一軍に再昇格を果たすと直ぐに結果を残し始めた。

昨年ホームラン王のタイトルにもう一歩だった万波選手は、今年まだ本調子に乗れていないが、この2018年組が側にいる限り大丈夫だろう。

彼らは、切磋琢磨して互いを高めている典型的な例だと思う。

 

オリックスにトレード移籍した吉田投手は、開幕一軍で迎えた。開幕直後は調子が良かったものの、残念ながら5月に入ってから調子を落としている。

ファイターズの仲間が活躍しているのを見て、「落ち込んでる場合じゃない」と奮起してくれるのを期待したい。

 

 

切磋琢磨の解説学研 四字熟語辞典

せっさたくま【切磋琢磨】

互いに励ましあって鍛錬や修行をすること。仲間が、互いに協力したり競ったりして、技量を高め合うこと。骨・象牙・玉・石は加工することによって、美しい宝石になるという意味。もとは天性素質のある者が修養を積み、立派君子になるという意味であった。

注記

「切」は骨の、「磋」は象牙の、「琢」は玉の、「磨」は石の、それぞれ加工法。「切せっするが如ごとく、磋さするが如く、琢たくするが如く、磨まするが如し」と読み下す。

引用:ダウンダウン

 

 

新庄監督になってからの采配を見ていると、飴と鞭を上手に使って選手たちの向上心を引き出して切磋琢磨させるのにめちゃめちゃ長けている。

監督一年目は支配下選手全員を一軍の試合に出場させて、一軍の華やかさを皆に経験させている。

一軍と二軍は天と地の差がある。

一度この華やかな一軍を経験したら常に帯同し続けたいと思うはずだ。

プロ野球選手である以上、一軍で活躍するのが仕事。そうでなければ、数年後には契約打ち切りが待っている厳しい世界だ。

 

 

 

チームメイトだけではなく、兄弟同士でも勿論切磋琢磨はある。

プロのスポーツ世界では、オリンピックに兄弟姉妹で出場する選手も多い。

 

このように互いを高め合うのが切磋琢磨なのだけれど、中には上がって来る後輩をモグラ叩きのように叩き潰して自分の位置を確保しようとする先輩や同期がいるのも事実。

強い学校やチームであっても、こんなメンバーが多くなると次第に勝てなくなる。

なぜなら、叩き潰したり批判したりするのは切磋琢磨ではないからだ。

 

「アホ」「バカ」「ダメな奴やな」「こんなんも出来んのか!」


みたいな下げ言葉ばかり連発している監督やコーチもいるだろう。


スポーツの世界だけじゃない。

同じ様な言葉を、自分の子供たちに投げつけている親もいる。

心当たりはないだろうか?

 

「これは叱咤激励ですから!」

 

なんて言うかも知れないが、上記の言葉だけを取ってみれば『叱咤』だけで『激励』は含まれていない。

こんな言葉ばかりを投げつけられたら、選手や子供たちの士気はだだ下がりだ。

教師や親が叱咤激励と叱責をはき違えて、罵詈雑言浴びせたりするのは教育に良いはずがない。

 

けれど一番マズイのが、子供たちがそれを『叱咤激励』だと思い込んで育つことだ。

常に上から目線で、他人に責任をなすりつける発言しかしないダメ大人になってしまう。

これでは切磋琢磨どころか、兄弟や仲間内で程度の低いひがみを招くだろう。

あげ句の果てには『自分を高めるために相手を貶す』という行為で自尊心を保つようになってしまう。(身近におるもん😅)

 

 

これが、近年SNSで誹謗中傷が横行する理由なのかも知れないと思う。

今の世で自分の人生に満足していない人々は、SNSなどで暴言を吐いて相手を叩くことでストレスを発散しているのかも知れない。

それが酷くなると、「相手は誰でもいいから殺したいと思った」などという殺人に発展したりする恐ろしい世の中になっている。

 

(怖っ😱)

 

 

切磋琢磨で、はつらつとプレーして結果を出して行く選手達に励まされる私みたいなファンもいれば、そんな選手達が犯したミスを鬼の首を取ったようにSNSで突く人も多い事実。

叱咤してその後にちゃんと激励するなら良いけど、叱咤激励とただの叱責を取り違えている人たちもいる。

 

 

そういえば阪神タイガースの選手達は皆、ファンの過激さを語る。

 

「負けた日は外歩けません😓」

「勝ったら、何処にもいかんでくれや!と懇願されるんです😅」

 

選手達の説明を聞いていると何となく分かる。

阪神タイガースのファンは、『叱咤激励』が上手いのだと。

開幕出だしでつまづいた阪神タイガースだけれど、さすが昨年の日本一のチームは5月14日現在トップに位置している。

 

 

叱咤激励の解説三省堂 新明解四字熟語辞典

しった-げきれい【叱咤激励】

大声で励まして、奮い立たせること。▽「叱咤」は大声で励ますこと。また、大声でしかること。「激励」は励まし、元気づけること。

引用:ダウンダウン

 

 

 

夏の甲子園の地方予選も始まった。

プロ野球のペナントレースはもうすぐ交流戦に入る。(交流戦:パ・リーグとセ・リーグのチームの交流試合。ペナントレース中に一度だけ行われる)

ファイターズの18年組には、切磋琢磨でトップのホークスを射落とす活躍をして欲しいものだ。

 

選手達がミスをしても、くれぐれも『叱咤激励』と『叱責』をはき違えて、『罵詈雑言』を浴びせることが無い応援をして欲しい。

 

親御さん達も普段の生活で、自分の子供たちを『叱責』だけして『激励』を忘れていないだろうか?

 


 

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日曜日、月二回の日本の叔母とのオンラインコール。

叔母は元気な顔を見せてくれ、娘アリスの姿がスクリーンに映ると更に嬉しそうな笑顔になり、同時に声も弾んだ。

 

(お母さんと同じやわ)

 

 

2022年の4月に亡くなった母は、毎週日曜夜8時半のオンラインコールでアリスの姿を見ると、私に対するより一段階上の幸せ笑顔を見せていたことを思い出した。

その定期便が母の死を知らせてくれるきっかけとなったあの夜のことを、私は今でもはっきりと覚えている。

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叔母とのオンラインコールが終わった後仕事に出て、家に帰ったのは夜の7時近かった。

夕食は、材料を切って煮るだけの鍋にした。

日曜の夜の日本時間8時半、オーストラリア時間の9時半は母とのオンラインコールの時間だった。

それに合わせて夕食を済ませ、シャワーも済ませていたことを思い出した。

なぜなら、母とのコールが2時間に及ぶことも珍しくなかったからだ。

 

 

鍋の夕食を済ませ、シャワーも済ませてPCの前に座り、書きかけの本の原稿に向かった。

すると、なぜか分からないが突然松任谷由美の曲が聴きたくなり、Youtubeでメドレーを選んだ。

懐かしい曲が次々とヘッドホンに流れてきた。

 

『ルージュの伝言』(魔女の宅急便💛)

 

『守ってあげたい』(カラオケの十八番やったなぁ……懐かしい)

 

『ひこうき雲』が流れ始めたとき、36歳で娘さん二人を残して逝った友人を思い出した。ちょっと涙した。

 

『やさしさに包まれたなら』(魔女の宅急便のエンドロール。いい曲やなぁ)

 

『埠頭を渡る風』(20代でバイクに乗っていたとき、TMネットワークの『Get Wild』と並んで好きな曲やったっけ)

 

そんなことを思いながら、聴いていた私の耳に次に流れてきた曲が、

 

『春よ、来い』

 

 

突然、脳内のスクリーンに2022年の4月に一人で見た満開の桜のシーンが何枚も映し出された。

そのときに桜を見ながら母を偲んだ思いが蘇って、あっという間に目から涙がボロボロと溢れ出した。

 

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2022年の4月の桜。

あのときは、母と弟と妹の四人で毎年行っていたお花見の記憶が刹那に浮かんで来たっけ。

お花見はいつも母と一緒だった。


父とのお花見の思い出は全く無い。

「子供の喜ぶことをしてあげたい」と思う人ではなく、自分がしたいことが一番大事な人だ。

それは今も全く変わらない。


母は子供たちの喜ぶ顔を見るのが幸せだったに違いない。

だって、今の私がそうだから。

 

 

 

「お母さん桜ってホンマに綺麗やね。」

 

もう一度母と一緒にお花見がしたくて、私は携帯で桜の写真を撮りながら母に話しかけていた。


春よ遠き春よ

瞼閉じればそこに

愛をくれし君の

懐かしき声がする

春よまだ見ぬ春

迷い立ち止まるとき

夢をくれし君の

眼差しが肩を抱く

 

 

 

 

モラハラ父との離婚を決意した母に対して、離婚訴訟でモラハラ父側に付いて離婚を阻止しようとした弟と妹。

オンラインコールで泣いていた母の泣き顔は、今でも私の脳裏に焼き付いている。


そんな風に母を悲しませた人々が、今度は叔父夫婦に理不尽を働く。

母が亡くなった直後に、家族に対する情というのが分からない父が叔父夫婦宛に書いた非情な手紙と、それを非常識とも思わない我が家族。


「非常識」「嘘つき」「欺瞞」「母に悪影響を与えている」等々、父、弟、妹から言われまくったこの6年間。

いつも私の側にいてくれたのは、娘のアリスと母だった。

 

 

母:「私に何かあったら、次郎(叔父)さんたちのことよろしく頼むね。」

 

子供のいない叔父夫婦に対して情も何も見せない父のことを知っていた母は、オンラインコールのときに事あるごとに私にお願いしていた。

 

私:「大丈夫。ちゃんとやるから安心して」

 

その叔父は、昨年11月に逝った。

 

 

君に預けし我が心は

今でも返事を待っています

どれほど月日が流れても

ずっとずっと待っています

それはそれは明日を超えて

いつかいつかきっと届く

春よまだ見ぬ春

迷い立ち止まるとき

夢をくれし君の眼差しが肩を抱く

夢よ浅き夢よ

私はここにいます

君を思いながらひとり歩いています

流るる雨のごとく

流るる花のごとく

 

 

母が亡くなった後、一度だけ母の夢を見た。

夢だと分かっていたけれど、会いにきてくれたのが本当に嬉しかった。

あれから2年経つけれど、まだ二度目の母の訪問は叶っていない。

母はいつも私の側にいるから夢を見ないのだと、私は勝手に思っている(笑)

 

 

作詞、作曲:松任谷由実、編曲:松任谷正隆

歌:松任谷由実

 

 

淡き光立つ 俄雨
いとし面影の沈丁花
溢るる涙の蕾から
ひとつ ひとつ香り始める

それは それは 空を越えて
やがて やがて 迎えに来る
春よ 遠き春よ
瞼閉じればそこに
愛をくれし君の
なつかしき声がする

君に預けし 我が心は
今でも返事を待っています
どれほど月日が流れても
ずっと ずっと待っています

それは それは 明日を超えて
いつか いつか きっと届く
春よ まだ見ぬ春
迷い立ち止まるとき
夢をくれし君の
眼差しが肩を抱く
夢よ 浅き夢よ
私はここにいます
君を想いながら
ひとり歩いています
流るる雨のごとく
流るる花のごとく

春よ 遠き春よ
瞼閉じればそこに
愛をくれし君の
なつかしき声がする
春よ まだ見ぬ春
迷い立ち止まるとき
夢をくれし君の
眼差しが肩を抱く

春よ 遠き春よ
瞼閉じればそこに
愛をくれし君の
なつかしき声がする
春よ まだ見ぬ春
迷い立ち止まるとき
夢をくれし君の
眼差しが肩を抱く
春よ 遠き春よ
瞼閉じればそこに
愛をくれし君の

 

 

母は愛に溢れた人だった。

けれど私の冷たい家族は、愛をただで注いで貰いっぱなしで、母に愛のお裾分けをしなかった。

母は一生懸命愛してくれていたのに、若き日の私はそれが分からなかった。


娘アリスが生まれて、私はアリスから愛を教えてもらい、母の愛情に気付くことが出来た。

娘から教えてもらった愛を、亡くなる前に母にあげられて本当に良かった。

 

 

心のリハビリに、この曲を聴いて来年の春を待とう。

 

そして来年の春が去ったら、またこの曲を聴いて翌年の春を待とう。

 

母にまた会える日まで、この曲を聴き続けよう。

 

今はまだ涙が溢れて歌えないけれど、多分きっとこの歌を泣かずに歌える日がやって来るはずだ。

 

その日が来るまで、ヴォイストレーニングをしておこうかな(笑)

 

 

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